新しい眼鏡について

私は目が悪い。このような書き方をすると、私の目に先天的責任があるように見えてしまい、本意ではない。一日の大半を本の紙面と液晶ディスプレイの間近で過ごす生活を続けてしまった私の意志が私の目に悪いといったほうが正確であろうか。そんな私の意志にせいで裸眼では30センチメートル先でさえ見通しを持つことができず、私は眼鏡をかけることになっている。今かけている眼鏡とはもう何年もの時を一緒に過ごし、私が見える世界を見えるままに映し出してくれている。

 ある折、ショッピングモールを歩いていると眼鏡販売店がセールを行っていた。経年劣化した眼鏡を買い替えるいい機会だと思い、お店に入った。気に入ったフレームを店員に渡し購入の旨を伝えると、レンズの選定のために視力を測定してほしいと言われた。最近の眼鏡販売店は便利で、視力測定を店舗内で実施できる設備があり、その結果に応じてすぐにレンズを決定することができるらしい。そんな事実に圧倒されているうちにレンズの調整が終わり、店員からそのレンズを入れた眼鏡をかけてほしいと促された。

私は視力が落ちていることに何となく気が付いていたため、新しいレンズで見える視界というものが実に鮮明であろうことに期待を寄せていた。しかし、受け取った眼鏡から見えた世界はその期待を裏切った。新しい眼鏡は旧来のものよりも真によく見えるし、本来はぼやけて見えていたものもくっきりと判別がつく。ただ、見えすぎてしまっている、その過剰さに違和感を覚えた。店内の様子のみならず、外の通行人の表情や掲示物の微小な文字も、視覚情報として脳に一斉に送り込まれたことでパニックになったのである。店員のよく見えるか、という問いかけに対して、私は言葉を発せず、うなずくことが精いっぱいであった。

 このときに起こしたパニックは、私が見るべき世界に対する覚悟が不足していたことが原因ではないかと回顧している。先にも書いたように、私は近視眼的生活に愛着を覚える性向を持っている。その影響が有機的対象にまで及んでいることが原因かどうかは分からないが、私は広く友好関係を持とうとはせず、近しい友人や家族と時間を共に過ごしたいと思っている。そんな性質が、新しいレンズで見えた遠くの人たちの表情、存在を無意識的に拒絶していたのかもしれない。私は、私の過ごしたい世界を創るために、私の眼鏡を、水晶体を、網膜を歪めていたのであろうか。

昨今の事情により、以前にも増して私の行動範囲は制限され、私の手の届く範囲での視界を受け入れる機会が全てになろうとしている。その影響か、私はより一層近視が進み、目も少しばかり痛むようになってきた。いつか、近くのものさえも見えなくなるのではないかという漠然とした恐怖に襲われながらも、私は未だに新しい眼鏡を手に取ることができない。