暴力問題から見る「正論」と「自己責任論」

教育についてのニュースで最近の話題になっているのが、次の記事にあるものであろう。

mainichi.jp

高校の先生が生徒に手をあげてしまい、その様子がネット上に拡散されてしまった、という案件である。このネット拡散の背景にはいろいろあって......、というのが、またネット上で噂されている事柄であるが、その事実関係について、ここに何か言うつもりはない。他方で、この記事にもあるように、(ネット拡散の経緯に関係なしに)暴力の行使を問題にする声が多数挙げられているが、このことについて私の意見を以下に述べ、それと関係する自己責任論についても言及したいと思う。

なお、教育現場における体罰、暴力の行使を肯定するつもりは一切ない、ということを事前に断っておく。

「暴力はいけない」の先にあるもの

 まず初めに、教育現場で暴力が行使されることがなぜいけないことなのか、簡単に考えてみる。教える・教えられるという固定された関係をもって、暴力が肯定される可能性がある、というのがサッと思いつく理由になるであろうか。逆に言うと、街中で人をぶん殴ったら警察に捕まるのに、教育現場で体罰が起きても捕まらない、というのは理に適っていない、というのが「暴力はいけない」の根拠になるだろう。

今回のこの案件も、この根拠に合わせて判断してみれば、まあ「どんな事情があるにせよ暴力はいけない」という意見が出るのは当然ともいえる。とても合理的判断であり、何も間違ったことを言っているわけでもない、純粋な「正論」である。

しかし、この「正論」を振りかざす風潮に対して私は警鐘を鳴らしたいと思っている。なぜならば、「暴力はいけない」という主張が絶対的な真として議論を収束させることができ、その議論の裏に潜む問題を解決できないからである。簡単に言えば、「それを言われるとぐうの音もでない」ということである。

ちょっと待て。じゃあ、「暴力はいけない」というのが真ではない、と言いたいのかと思われるかもしれない。そうではなく、「暴力はいけない」という合理的主張を過多に用いることが別の問題を招く、という可能性が示唆されるということを言いたいのである。例えば、生徒側がこの主張をいたずらに用いることによって、教師の指導に支障が出るかもしれない。実際、2017年には福岡県の高校で、生徒が教師に暴行を加える事件が発生した。(なお、教師は生徒に対してまったく抵抗できない状況になっていたことがネット上に拡散された動画から確認できる。)

断っておくが、この示唆が、暴力を行使することで指導が円滑になるとか、暴力抜きに指導ができない、ということを導くというわけではない。ここで、示したいのは、「暴力はいけない」という主張は合理的かもしれないが、ある一面においては不当な状況を作り出すことがある、ということを言いたいのである。私は、生徒に教師が暴力をふるったこの案件を「暴力はいけない」と切り捨てるのではなく、教師がなぜ暴力をふるってしまったのか、生徒と教師の指導的関係がどのようであったか、そしてそこに問題があったと判断される場合には、どのような対応をするべきなのか、ということを「暴力はいけない」の先にある問題して議論するべきである、と考える。

正論と自己責任論

さて、話は変わって、上に述べた「暴力はいけない」というような正論と、自己責任論というのは切っても切り離せない関係にあると、私は考えている。これを見るために、正論とはどのようなものであるか、を先に述べた案件をもう一度思い出しながら考えてみる。

「暴力はいけない」のように、正論とは、いかなる状況に対しても合理的であるような主張で、いわば法律と似たようなテイストを持つものとして規定できそうである。しかし、一方で、先に見たように、正論はある一面については不当な状況を作り出す可能性があると示唆できる。では、なぜ不当な状況が作り出されるのか。それは、正論の規定自体の問題に起因する。すなわち、正論はいかなる状況でも合理的であるために、ある種の心的問題、主観を捨象しているからである。例えば、暴力の案件では、なぜ暴力をふるったのかという心的問題が議論の外に出されていることを指摘していた。

このように、心的事情や主観を排除することによって正論は合理性を保ち、人々の支持を得ているということになる。このある種の逆が、自己責任論を指示に向かわせているのではないか、と考えている。自己責任論とは、自己の不利益は自己の行動・判断によってもたらされるものであり、他人および社会に端を発する問題ではない、と切り捨てることである。つまり、自己責任論では、自分以外の社会は合理的判断がなされていると信奉し、(正論で排除されるような)心的事情や主観による判断が不合理性をもっていると断じている、と私は考えている。

合理性によって切り捨てられるものは本当に不必要なものか

 以上のように、合理性を前に、個人的事情や主観が切り捨てられ、正論や自己責任論が構築されていることがわかる。そして、これらは任意の状況で合理的であるように構成されているがために、議論でひとたび提示されれば、そこに立ち向かう術がないように思える。議論は、正論・自己責任論に収束するのである。

しかし、正論・自己責任論には本来の想定に大きな欠陥があるように思われる。それは、人間が完全に合理的な判断を行える生命体である、という仮定である。この仮定は心理学的な側面から厳密に否定されるが、そんなに難しく考えなくとも、日常生活において、人間の不合理性は簡単に見つけられると思われる。(人生の中でウソをついたことがないなんて人はいないだろうし、今までで忘れ物をしたことがないなんて人もいないだろうし、また、活動の年間計画を立てて一日たりとも手を抜かずに活動を頑張った人もほとんどいないだろう、ということを思えばよい。)

つまり、人間が失敗をおかす理由は、単純に人間には不合理な判断を下すことを強いられるような心的状況をいくらでも構成できるということに起因するということである。このことは、次のことを示唆すると私は考えている。すなわち、正論・自己責任論によって切り捨てることのできない問題も存在するということである。

先の「暴力はいけない」という案件でも述べたように、合理性によって捨象された教師と生徒の個人的関係にこそ問題の本質があるかもしれないし、正論・自己責任論によって問題を判断することができない場合がある。私たちは、そういった問題に対して、問題の当事者双方の事情を鑑みながら、正論・自己責任論のような公式ばかりに頼ることなく、自分の頭で考えることが、合理性で構築された社会のその先に生きる私たちの使命なのではないか、と考える。