美術品の価値と独創性の羨望

昼間にテレビでニュースを見ていると,次のような話題があった.

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 事情を簡単にまとめると,オークションで億単位の値段のついた絵画を落札直後にシュレッダーにかけたことが話題を呼んでいるというのである.僕は美術について明るくないので,もともとの絵画の価値が如何ほどのものであったかということには存じ上げないが,「シュレッダーをかけたことによって」その話題が日本にまで伝播することを考えれば,絵画の裁断という行為がこの絵画の価値をより一層高めたということなのだろう.

この話題に関連して,美術品の価値がどのように決まっていくのだろうか?ということを徒然なく考えてみたので,以下に記しておく.(美術・芸術論に関して明るくないので,稚拙な議論かもしれないがご容赦いただきたい.)

まず,一部の例外を除いて美術品は物それ自体として自立的に価値があるものではない.この主張に関しては,シカやシマウマが絵画に何かの意味を見出し興味を示すということがないというような例を見てもらえればわかると思う.デザインされた食品に興味を示す動物がいるのではないか,という指摘を受けそうだが,それは食品に対して関心があるだけであり,その意匠については動物にとっては意味をなしていないということを考えてもらいたい.物自体に価値が存在していないということは,その価値は人間の関心の度合い,およびその物を手に入れたいという欲求の強弱によって決定する.これは,単純に言えば「需要と供給」によって価値が決まるという経済学的な決定である.

この「需要」という言葉は人間のどのような心の動きに端を発するものだろうか?人間が物を必要とするということは,それを欲しいと思っているのにも関わらず所有していない,もしくは不足しているという状態にあるということである.ただ,この状態定義が美術品の場合にも当てはまるというのは美術・芸術の世界を過少に評価しているとしか思えない.というのも,美術品を鑑賞するという行動があることを鑑みるに,単純にそれを入手するということに拘泥している人が溢れかえっているとは考えにくいからである.では,どのように説明すべきかといえば,美術品の需要は「独創性の羨望」というところから生まれるのではないか,と考える.

これは先に挙げたニュースを考えてもらえばよく分かる.なぜこの絵画が話題になったかといえば,落札されるやいなやシュレッダーにかけられて破壊されるということにあった.誰も億単位の絵画が価値が確定した直後に裁断されるとは思っておらず,そのような出来事も過去なかったというのであろう.それゆえ,皆がそれに驚き,その心の機微が世界中に伝播したのだろう.簡単に言えば,「その発想はなかった」とか「してやられた」ということである.

この例を見るに,美術を鑑賞する人は「してやられる」ことを望んでいるように思える.彼らが美術家・芸術家に自分たちが思い付きもしない発想とその表現を求めているということである.これは憧れ,羨望といった言葉で表現されるものであろう.

さて,話は長くなったが,結局美術品が美術品として価値を保つということには作成者本人だけではなく,鑑賞しそこに独創性を見出す他者が必要ということである.そういう意味では,美術品の価値決定問題は,心のやり取りにおける経済学的問題であるといえよう.

 

論はまだまだ展開できそうではあるが,ちょっと書き疲れたので,続きはまた後で...